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多様性の再認識——『アーキテクチャの生態系』を読んで

前置き

 

これはPARAでの幸村燕さんによるゼミ「加速主義とゼロ年代批評を横断する批評的縦断の実践」の課題で提出したエッセイである。

 

このゼミでわたしは加速主義やゼロ年代批評の著作に触れることができた。社会情勢とカルチャーとを結んでみるという、自分にとってチャレンジングな課題に取り組んだのもこのゼミが最初だったと言っていい。

 

課題には「2,000字程度でまとめる」という条件もあった。普段、字数制限もなくブログを書いていたわたしにとっては学ぶことが多いゼミだった。

 

このゼミで提出したエッセイを5本ほど、このブログに載せようと思う。本稿は2つ目のエッセイである。

 

すでにゼミの中で幸村さんによる校正が一回入っているが、掲載するにあたり再度自分でも加筆修正した。また、当ブログでのレギュレーション (例:私→わたし と表記) に則って改訂している。

 

 

 

本稿についてもうすこし前置きをしておく。

 

本稿で「ミクシィ」と言っているのは2008年当時のミクシィのことである。

 

今年(2024年)の12月16日に「mixi2」が始動した。わたし自身もこの、ネット黎明期の“民主的で真に公平なプラットフォーム”を想起させるサービスに熱狂してしまった。クリスマス前の「ホームアローン2」や「M-1グランプリ2024」のリアタイを経て、今現在は落ち着きをみせているように感じられるが、「ミクシィ」という国産SNSブランドに寄せる日本人の潜在的な期待の大きさをあらためて知る出来事であった。本稿および『アーキテクチャの生態系』で語られている文脈に準えれば、“素性を明かした個人をエンパワーメントするツール”といった米国的なSNSの特徴が強くなってしまった「X(旧Twitter)」に対して、“匿名での繋がりそのものを提供するツール”としての国産SNS「mixi2」への期待の大きさ、と言い換えることもできよう。

 

今後この「mixi2」がアーキテクチャの生態系にどのような変化をもたらすのかは注視していきたい。

 

 

この『アーキテクチャの生態系』の「生態系」とは実に言い得て妙だ。わたしたちがまさに生態系の激変の渦中に生きていることを思い知らされる日々である。

 

本稿のページ表記 (p.XX) は 『アーキテクチャの生態系』のページ数を示している。

 

 

 


濱野智史による『アーキテクチャの生態系』は、Web 2.0 Conferenceにてウェブの新しい利用法が広まった2008年に出版されたものであるが、それでもむしろ2024年の今にこそ再読の価値があるものである。

 

2008年と言えば、Web 2.0 Conferenceにてウェブの新しい利用法が広まった2004年の4年後であり、YouTubeやTwitterがサービスを開始して間もない頃だ(1)。そのため、濱野が論ずる対象は我々の現在利用するアーキテクチャとはかけ離れている。にもかからわず、本書が我々の生きる現代にとってアクチュアルなものなのであるとすれば、それはなぜだろうか。以下で本書の概要を見ていこう。

 

濱野の論旨ははっきりしている。濱野はWeb 2.0の時代に乱立した新しいネットコミュニティやウェブサービスが持っている構造=アーキテクチャに着目し、それらが人間社会に即して発展するという実情あるいは、逆にアーキテクチャが人間社会にもたらす影響を、客観的に、そして肯定的に位置付けている。その位置付けには、アーキテクチャの中に「偶然性=自然成長性」を認める生態系論を用いており、その手法には説得力がある。

 

例えば、日本において独自の発展を遂げたとも言える2ちゃんねるについて、社会学者・北田暁大の「繋がりの社会性」という用語を用い、「2ちゃんねらーにとって、もはやコミュニケーションの「内容」はさしたる重要性をもたない(p.97)」「「繋がりの社会性」に興じる者たちは、右か左かといった政治的なイデオロギーの<内容>には関心がなく、祭りや炎上に参加しているという<事実>だけを求めている(p.97)」というように分析している。コミュニケーションの<内容>よりも、コミュニケーションを取っているという<事実>を求めることこそが「繋がりの社会性」なのである。

 

これが蔓延した要因としては、ポケベルや携帯電話の普及が挙げられる。1980年代には若者の溜まり場として機能したコンビニエンスストアが、90年代以降ののポケベルや携帯電話の普及による繋がりにとって代わられることで、いつでもどこでも繋がれるという状況が生まれたのだ。そのような社会的基盤がすでに出来上がっていたこと、また「匿名掲示板というアーキテクチャが、日本の集団主義/安心社会的な作法・慣習・風土にマッチしていた(p.114)」ということ等が、2ちゃんねるの発展を促し、さらにその発展が「繋がりの社会性」や「匿名性」を加速させていった。

 

濱野曰く、このような状況は「偶然性=自然成長性」に特徴付けられる生態系に準えることができるのだという。そして「繋がりの社会性」は、ミクシィの「足あと」チェックという中毒症状や、ニコニコ動画上のコメントがもたらす「お茶の間のシンクロ感 (p.229)」という「擬似同期」とも関係している。しかし、2ちゃんねるが日本のネットユーザーに広めてしまった「匿名のヴェールを身にまとうこと(p.327)」は、梅田望夫が言祝いだ「消費者主体の「総表現社会」の到来(p.324)」とその「個をエンパワーメントするツール(p.103)」としてのブログとは相入れないものである。なぜならば、個をエンパワーメントするには、「自分が誰なのかをウェブ上で明らかにしたうえで情報を発信していく(p.103)」必要があるからである。これについても濱野は「そもそも私たちは、米国的なインターネット社会のあり方を唯一普遍のものとみなす必要はない(p.329)」とし、日本独自のソーシャルウェアの発展を認める立場を取っている。

 

 

濱野は本書の「はじめに」において「ネットは広大」という言葉を二度も登場させている(p.1、p.2)。これは士郎正宗原作の『攻殻機動隊』において、脳や脊髄のみをオリジナルとして有する主人公、草薙素子が、ネットのはざまに偶然生まれた知能だけの生命体「人形使い」と結婚した後、最後につぶやくセリフである。『攻殻機動隊』から引用すれば、「人形使い」が素子との融合を希望する理由は「多様性やゆらぎを持つ為(2)」である。ゆらぎや自由度が無いシステムは破局に対して抵抗力がないと言うのだ。『攻殻機動隊』同様、濱野が本書において貫いているのも「多様性」を重視することである。たとえ「反理想的(p.324)」なアーキテクチャが自然発生してしまったとしても、その「多様性」を担保することこそが絶滅を回避し、進化への道を切り拓く鍵なのである。

 

冒頭でわたしは本書について「2024年の今こそ再読の価値がある」とした。その理由は本書の出版当時に見られた「多様性」が現在失われつつあると感じるからである。インターネットの自由で多様な生態系の理想から見て「ズレ」をはらむ日本のアーキテクチャ、即ち、濱野が挙げている「匿名掲示板の2ちゃんねるや、SNSのミクシィ、そして動画共有サイトのニコニコ動画(p.323)」の2024年現在の需要はどうだろうか。濱野が可能性を見出した日本特殊型のソーシャルウェアは今や勢いを失くしている。加えてGoogleを擁するアルファベットは、Googleアドセンスを利用しているブログやYoutubeの動画に対し、検閲行為ともとれる措置を取っている。具体的にはウクライナ戦争に関する表現や新型コロナワクチンに対する主張に対する収益化の停止やBANである。2ちゃんねる開設者の西村博之の言葉を借りて現状を表すとしたら、「嘘を嘘だと見抜けない人が使うには難しい」現代のウェブサービスにはアーキテクチャによる制限が必要だ、ということだろうか。アーキテクチャの設計が多様性や自由度を奪う方向へと進み過ぎぬように、今こそ濱野の問いを再度意識する時なのかもしれない。

 

 

 

 

注釈

(1) YouTubeの日本語版サービスは2007年、Twitter日本語版サービスは2008年より開始されている。

(2) 士郎正宗(1991) 『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』 講談社、 p.340

 

 

 

 

 

濱野智史(2008)『アーキテクチャの生態系』 NTT出版


士郎正宗 (1991)『攻殻機動隊』 講談社



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