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前置き
これはPARAでの幸村燕さんによるゼミ「加速主義とゼロ年代批評を横断する批評的縦断の実践」の課題で提出したエッセイである。
このゼミでわたしは加速主義やゼロ年代批評の著作に触れることができた。このゼミで提出したエッセイを5本ほど、このブログに載せようと思う。本稿は3つ目のエッセイである。
すでにゼミの中で幸村さんによる校正が一回入っているが、掲載するにあたり再度自分でも加筆修正した。また、当ブログでのレギュレーション (例:私→わたし と表記) に則って改訂している。また、本稿のページ表記 (p.XX) は 小谷真理(1994)『女性状無意識<テクノガイネーシス>——女性SF論序説——』勁草書房 のページ数を示している。
本稿についてはすこし長めの前置きをしておきたい。
小谷真理といえば、巽孝之編 巽孝之 小谷真理訳(1991)『サイボーグ・フェミニズム』 TREVILLE における、1985年のダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」の邦訳という重要な仕事を無視することはできない。ハラウェイによる「サイボーグ宣言」は、あらゆる二項対立を解体する存在としてサイボーグを位置づけた。サイボーグは、「人間と動物」 「有機体と機械」 「物理的なるものと物理的ならざるもの」の境界を無効にする。ゆえに、ポストモダン時代のフェミニズムと深く結びついている。男と女という二項対立——とりわけ男性優位である対立状態——を女性優位に転倒させて終わらせるのではなく、ニュートラルな状態にまでズラすことができる存在、それがサイボーグなのである。
「サイボーグ宣言」や『サイボーグ・フェミニズム』そして本稿でとりあげている『女性状無意識』から時代はさらに加速した。SFアニメ表現に見られるような、体の一部が機械になったサイボーグは未だ一般的ではないかもしれないが、わたしたちが肌身離さず持ち歩いているスマートフォンについてはどう捉えるべきか。スマートフォンがなければ、注文、支払い、就職、人間関係を形成するコミュニケーションといったすべてが困難な状態に陥るだろう。スマートフォンにはすでに各個人のアイデンティティが紐づけられている。ハラウェイによる「サイボーグ宣言」はそのようなわかりやすい機械と人間の融合に留まるのみならず、現代社会におけるありとあらゆる “人工的なもの" ——家庭、市場、職場、国家、学校、病院、教会——を明らかにするわけだが、今ほどこの “現代人はすでにサイボーグである" という宣言が響く時代もない。
わたしがここで “今" というのは、アメリカ合衆国において第二次D.トランプ政権が発足し、慎重に進めなければ男と女という二項対立が色濃く復活しそうな機運の中で、日本のX(旧Twitter)では 「#私が退職した本当の理由」というハッシュタグを通じて職場での女性搾取の告発が行われている “今" のことである。
境界はとっくに無効化され、わたしたちはおしなべてサイボーグである。であるがゆえの “人工的な不均衡" を打破するべく、新たな境界が要請されている。そんな時代なのかもしれない。
エイリアンを照射するテクノロジー——『女性状無意識』を読んで
女性とSF——この二つの単語を結びつけるものとして真っ先に思い浮かんだのは、男性を凌駕する戦闘力を持つかっこいい女性キャラクター達である。『ニューロマンサー』のモリイ、『攻殻機動隊』の草薙素子、『マトリックス』のトリニティなどがこれらに該当する。しかし、小谷真理による『女性状無意識』を紐解くと、先に挙げた彼女達は、ひょっとしたら「資本主義的家父長的男性優位的基盤(p.255)」の上で男性として矯正されてしまった女性として捉え直すことも可能なのかもしれない。テクノロジーにより男性優位的価値観に沿った力を持ち得た女性キャラクターは、一見、女性もヒーローになれる、といったような男女同権的な思想を提供しているように見えて、真のフェミニズムからは遠い。何故なら、彼女たちの持つ力は男性優位的な価値観に沿ったものであるからだ。
昨今のX(旧Twitter)上でフェミニスト側が “ツイフェミ" と揶揄されるような事例には、そもそもフェミニズムという理念を取り違えているものがしばしば存在する。フェミニズムの目的は男女同権のみではない。フェミニズムの真の理念とは “女性解放" である。このような認識を促すためにも、本書にて小谷が論じている女性SFとフェミニズムの深い関連性は非常に有意義なテーマである。小谷は冒頭にてマーリーン・バーの言葉を引用する。「サイエンス・フィクションとは、何より外部の他者を描くジャンルであって、(中略)ところがふりかえってみれば、これまで誰よりも人類の外部であり歴史の暗部に存在していたのは、女性たちだった。だからこそ、外部の非常識をもちこむ彼女たちの思弁的想像力がSFと交錯していくのだ、と。(pp.5−6、中略筆者)」。そうなのである。女性と男性は互いをエイリアンのごとく認識するのが正しいと思えるほどに、生物学的に違う生き物なのである。エイリアンと遭遇した際、どちらかをどちらかの身体や能力に完全に同化させることなどできない。本書では女性作家によるSF作品を分析することで、本来「女性的なもの」=ガイネーシスとされていた自然・他者・母親・無意識・狂気等がどのように抽出され再構築されているかを示しながら、女性達の直面している現実を浮き彫りにする。小谷の論じる女性達は何からの解放を望んでいるのだろうか。
メアリ・シェリーが生み出した有名な『フランケンシュタイン』の物語には、肉食の象徴である屠殺場の死体をツギハギにしてつくられた人造人間が登場するが、この怪物は菜食主義者として描かれる。人造人間という存在は、女性を出産から解放するばかりでなく、キリスト教が女性にもたらす劣等感からも女性を解放する。無原罪とされる聖母マリアは処女にしてイエスを孕ったが、元来これは不可能なことである。つまり、すべての母親は聖母になることができないばかりか、穢れているのである。しかし、あるいはテクノロジーであれば、この穢れから母親を解放することが可能であるかもしれない。処女からも生まれることが可能な人間、すなわち、人造人間がその可能性の一つである。「昨今のフェミニズム批評の文脈は、女性作家メアリ・シェリーの生んだサイボーグ像に、従来のキリスト教的家父長制の根幹をしめる原罪幻想を免れうる可能性を見出す。そして、[キャロル・]アダムズの見解によれば、『フランケンシュタイン』の怪物の食生活こそ、その可能性を暗示するという。(p.217、角括弧内筆者)」、つまり、肉食に男性性、菜食に女性性を見出し、さらに、肉食に性的な隠喩を付随させる考え方が根底にあるのである。しかし、菜食から想起される草食動物的な穏やかさから、小谷の考察はさらに進み、女性にも肉食動物的な獣性を取り戻させる。同章には、「おっぱい女」という、初潮を迎えたばかりであるために妊娠しにくい少女が同年代の少年を食べるという物語や、『コックと泥棒、その妻と愛人』という作品の、殺された愛人をコックに調理させ夫に食べさせるという場面が引用される。そして続く次章には日米における「やおいカルチャー」の登場が論じられている。つまり “肉を食べる" ということを “性的に犯す" という攻撃的な行為の隠喩と捉えるならば、やおいを描く作者たちは女性側に妊娠の可能性がない安全なところでの “攻撃的な性的嗜好" を満たす手段を与えている、と見なすこともできよう。女性が安全に攻撃的になれる条件とはどのようなものであろうか。女性が男性と異なるのは生殖に関するものが多く、特に中絶や出産の身体的ダメージの有無は言うまでもないだろう。「女性の管理による生物学的再生産——それが一方で女性の体をかくも損傷すべきものだったとは。(p.55)」であるならば、他者である男性を犯す欲望は妊娠の可能性がないところで達成されるべきものであり、それが “妊娠しにくい少女が同年代の少年を食べる"(「おっぱい女」) 、 “男性に男性を食べさせる" (『コックと泥棒、その妻と愛人』、「やおいカルチャー」)、といった形で噴出しているのだ。このような過激な欲望の噴出は抑圧されてきたことの裏返しであり、この構図は、男性中心のおたくカルチャーが非現実的な女性キャラクターに向ける欲望とその裏側を考察するのに十分な類似性を持ってはいないだろうか。女性達が解放されたいのは「資本主義的家父長的男性優位的基盤」からであるのは明らかだが、何よりもまず “無理解" からの解放を望んでいるはずだ。 “攻撃的な性的嗜好" というものは女性も持ちうる。しかし、それは男性が一般的に想像するものとはかなり異なっている可能性がある。本書は、男性には女性というエイリアンを、女性には男性というエイリアンを照射するための一つのテクノロジーとして十分に機能すると言えよう。
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