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亡霊へのカウンター——『ポスト資本主義の欲望』を読んで

前置き


これはPARAでの幸村燕さんによるゼミ「加速主義とゼロ年代批評を横断する批評的縦断の実践」の課題で提出したエッセイである。

 

このゼミでわたしは加速主義やゼロ年代批評の著作に触れることができた。このゼミで提出したエッセイを5本ほど、このブログに載せようと思う。本稿は4つ目のエッセイである。

 

すでにゼミの中で幸村さんによる校正が一回入っているが、掲載するにあたり再度自分でも加筆修正した。また、当ブログでのレギュレーション (例:私→わたし と表記) に則って改訂している。また、本稿のページ表記 (p.XX) は マーク・フィッシャー 大橋完太郎訳 マット・コフーン編(2022)『マーク・フィッシャー 最終講義 ポスト資本主義の欲望』 左右社 のページ数を示している。

 

 

 

前回のエッセイ投稿から日が経ってしまった。本稿で触れているように、これを書いた当時わたしは親の在宅介護をしていた。その後、親の施設入所が叶い、わたしはヒリヒリした問題意識から解放されてしまったようである。喉元過ぎれば熱さを忘れる——昔の人はよく言ったものだ。

 

しかしながら、このエッセイやマーク・フィッシャーの名はわたしの頭から完全に消えることなくうっすらと漂い続けていたのである。まるで亡霊である。

 

亡霊と言えば、次の5つ目のエッセイで取り上げる、マーク・フィッシャー 五井健太郎訳(2019) 『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』  Pヴァイン にも関係してくる“憑在論” だ。憑在論とは 「亡霊のような方法で、過去の社会的或いは文化的な要素が回帰したり、持続したりすることに関する広範な思想を指す」 (https://ja.wikipedia.org/wiki/憑在論 より) というものである。

 

フィッシャーの主著 『資本主義リアリズム』 の増補版が4月末に発刊されるらしい。フィッシャーが自殺してから8年経つが、彼の語った文化や政治や精神的なものごとはずっと同じようなテーマをもって今もなお語られている。人類がその叡智をもって巨人の肩の上に立とうとも、 『資本主義リアリズム』 が浮き彫りにしたものごとが解決されることはないのか。わたしは困難の只中においては日常を生きることに精一杯で、解放されれば根本の問題を忘れてしまった。こんな絶望があるだろうか。

 

頭の中にフィッシャーの名がうっすらと漂い続けてしまうのは、彼が身近な映画やドラマや音楽といった文化と、政治と、うつ病とを横断した語り手だったからだろうか。いや、文化と政治と精神なものごとを語る論者はたくさんいる。左派加速主義者とされるフィッシャーにはわたしが思うリベラリストのイメージがどうも当てはまらない。彼が深く絶望していたという事実が、彼を特別な存在にしているのではないか。

 

映画やドラマや音楽や政治や精神的なものごとが語られるのを目にするたびに、フィッシャーは現れる。それは精神的に解放されてふわふわと風船のように漂っている状態の時ほど、わたしを地に繋ぎ止めるような存在でもある。絶望しているくらいが正常だと、わたしもどこかで感じているのだろう。

 

 

 


亡霊へのカウンター——『ポスト資本主義の欲望』を読んで

 

マーク・フィッシャーの著作を読むのは2冊目である。初めに読んだ『資本主義リアリズム』は、帯に「たまらなく読みやすい」とスラヴォイ・ジジェクの評が印刷されていたにもかかわらず、わたしにはよくわからなかった。しかし、この『ポスト資本主義の欲望』を読み進めるうちに、フィッシャーが何を訴えたかったのかがようやく掴めてきた。そしてその訴えが、一筋の蜘蛛の糸のような、力強いのか脆いのか、全ての人の重みに耐えられるのか一部の人しか救えないのか、といった危うさを持っていることもわかってきた。「オルタナティヴなどない」(この道しかない)と思わせる資本主義を、わたしたちは超えることができるのか。『資本主義リアリズム』が矛盾を孕んだ資本主義の実体を詳細に描き出したものならば、『ポスト資本主義の欲望』は資本主義を超えるために立ち上げなければならない階級意識を明らかにし、労働者階級に属するわたしたちを啓蒙しようとするものである。だが、フィッシャーのこの主張は、今、亡霊のようにむなしく彷徨っているようにしか思えない。

 

フィッシャーは、本書の元となったロンドン大学ゴールドスミス・カレッジでの講義の期間中に自ら命を絶った。本書で語られていることは2016年時点のことである。世界はその後Covid-19と、今現在も続いているウクライナやパレスチナでの惨事も経験している。しかし、フィッシャーが目指したものにとって、ある意味それらよりも重大な困難と思えることが、近年起きている。生成AIの急速な進化である。

 

フィッシャーの目指す「ポスト資本主義」では、機械による自動化やベーシックインカムにより労働者階級が労働から解放されることが条件であった。本書の巻末付録2で引用されているフィッシャーの2015年7月18日のブログにも「怒りと悲しみからみんなの喜びへ……けっして終わらない労働から果てしない自由の時間へ 今こそ全員にベーシックインカムを!」とある(1)。ここで、とあるXの投稿を紹介したい。「わたしが絵を描いたりものを書いたりできるようにAIに洗濯と皿洗いをお願いしたい。わたしが洗濯と皿洗いができるようにAIがわたしの絵や文を書くのでなくて」と訴える紙面の投稿である(2)。実際は元の投稿を別アカウントが再投稿したものであったが、世界中から67万のいいねを獲得してしまい投稿者が戸惑うようなメッセージを寄せている。それだけ多くの人の共感を得る訴えであることがわかる。機械による自動化が叶った現実とはまさにこのようなものだ。個人的なことを言えば、自分は現在要介護の親を在宅でみていたが、2024年の3月に、本人の筋力低下による介助量の増加を理由に今まで通っていたデイサービスから通所を断られた。我が家にはレンタルのリフターがあるので日常の移乗はなんとかこなせていたが、施設側ではリフターの導入の検討もせず、対応できないという。生成AIがクリエイティヴな仕事の可能性をどんどん広げていく一方で、高齢化社会の現状ではロボットやAIの導入が施設に行き届かず、家族が面倒をみなければならない。少し調べれば、かなり進歩的なボディスーツの商品開発までされているのに、介護の現場での導入はされていない。今は過渡期なのだろうか。そうだとしても、このまま、元来携わってきた仕事をAIにゆずり何らかのケア・ワークを強要される人間が増え、その状態で社会が回ってしまったなら、資本主義社会の支配者層は労働者階級のためにさらなるケア・ワークの改革を推進するだろうか。自分たちを脅かしかねない労働者階級に自由な時間という力を与えるようなことをするだろうか。

 

ここで、フィッシャーの語る「ポスト資本主義の欲望」は第1講から論を組み立て直さねばならなくなった。労働者は、労働の時間から解放されるが、その代わりに無償のケア・ワークに駆り出される運命だとしたらどうなるだろう。無償のケア・ワークを半ば強要されている聴衆に、ビートルズの「ベッドにいて、上流に向かい浮かぶ(p.42)」の歌詞は響かない。目の前の日々を生きるのに精一杯になるからだ。上流か下流かなどはどうでもよく、ただ生命維持のために睡眠時間を1秒でも多く確保したい、そんな生活である。さらにフィッシャーは次のように説く、「ビートルズは労働する必要がなかった。60年代初頭までに、彼らは間違いなく、もう働く必要がないほど十分な額の金を稼いでいました。ですがそのときに、彼らのもっとも面白い、実験的な作品が誕生しました。(p.81)」。これは、クリエイティヴな活動に対するモチベーションは社会の自動化では失われないという主張だが、聴衆の反応がなければビートルズは作品を作り続けられなかったのではないか。「ああ、大金が欲しい、あと女の子にモテたい」 (p.174) といった資本主義社会特有のリビドーを持つ聴衆でなければ、クリエイティヴな活動は支持されない。そのリビドーは無償のケア・ワークを行う日々においては去勢される。そしてクリエイティヴな活動自体も今まさにAIが奪おうとしている。労働者階級が立ち上がるために必要なリビドーさえ奪われようとしているのだ。わたしたちに最後までポスト資本主義の可能性を語り続けてくれたフィッシャーを憎むことはできないが、亡霊になって彷徨う彼の理想にカウンターをぶつける必要にせまられている。

 

 

 

 

注釈

(1) https://k-punk.org/no-more-miserable-monday-mornings/ (最終アクセス 2025/04/16)

(2) https://x.com/alexgpickering/status/1796990602716066042?s=12&t=DsLldg2iVA3hlWoD35QVwQ (最終アクセス 2025/04/16)

 

 

 

 

 

 

マーク・フィッシャー 大橋完太郎訳 マット・コフーン編(2022) 『マーク・フィッシャー 最終講義 ポスト資本主義の欲望』 左右社


マーク・フィッシャー 五井健太郎訳(2019)  『わが人生の幽霊たち――うつ病、憑在論、失われた未来』  Pヴァイン


マーク・フィッシャー セバスチャン・ブロイ訳 河南瑠莉訳(2025) 『資本主義リアリズム 増補版』 堀之内出版



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