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Chapter.1 アートとマネタイズはなぜずっと問題になるのか?(仮説)

幼少の頃からなぜか絵が好きだったわたしは、自分でも描いてみたり、大学で美術史を専攻したり、画材屋で額装を担当したり、プライマリーギャラリーで広報を担当したりしてきた。近年は展覧会に足を運び感想をブログに書き散らすに至る(※参照:わたしのもうひとつのブログ→onlineartjournal.com

 

 

そんな中で常に聞こえてきたのは、アートとマネタイズの問題だ。

 

 

「売れるものが描きたいんじゃない。もっと自分の絵を描かなきゃ」

 

「作品が売れるとか売れないとかどうでもいいんです。もっとアカデミックな仕事がしたい」

 

「最近のアートブームに安易に乗っかってくる企業は売上しか見ていない。辟易する」

 


これらが言わんとしていることは次のようなことだろう。

 

 

アートを金儲けの道具にしてはいけない

 


その考えにはふわっと賛同してしまう。あるいは、賛同できずに反論を試みると、自分が守銭奴になったような、なんとも居心地の悪い気分を味わわされることになる。

 

 

しかし、この「ふわっとした賛同」や「反論のしづらさ」はどこからくるのか。

 

 

金儲けの道具という表現をさけるならば、マネタイズとでも言おうか。資金がなければ絵の具も買えない。発表する場所も用意できない。搬入、インストール(設営)、広報、贋作対策、、、ギャラリーの展示ひとつとってもさまざまな仕事がある。美術館なら保管や研究にも費用がかかる。人が動いている。タダ働きでよいわけはない。このような話は誰もが納得するものであり、さんざん言われてきたことでもあるが、それでも腑に落ちない部分がずっと残されているのではないだろうか。その部分の解像度をあげてみようという話だ。

 

 

まず前掲した以下のような具体的な言葉について、今一度考えてみよう。

 

 

「売れるものが描きたいんじゃない。もっと自分の絵を描かなきゃ」

 

「作品が売れるとか売れないとかどうでもいいんです。もっとアカデミックな仕事がしたい」

 

「最近のアートブームに安易に乗っかってくる企業は売上しか見ていない。辟易する」

 

これらの裏に潜む前提として、「アート」には「金儲けしにくいもの」「金儲けしやすいもの」があると考えられているようだ。

 

 

では「金儲けしにくいもの」「金儲けしやすいもの」をもう少し紐解いてみたい。クレメント・グリーンバーグの有名な「アヴァンギャルドとキッチュ」を引いてみる。

 

 


 

 

※以下、

ライラック色の四角で囲まれた引用文

は、クレメント・グリーンバーグ、藤枝晃雄 編訳 (2005) 『グリーンバーグ批評選集』 勁草書房より

 

 

 

なぜグリーンバーグをここで引用するのか。実際には、グリーンバーグのこの論考の主張はべつのところにあって「大衆に迎合し通俗的なものに偏りすぎると権力者にいいように利用される」ということだと理解している。この警鐘にはわたしも概ね賛同しているからである。

 

 

マネタイズの話に戻ろう。

 

「アヴァンギャルドとキッチュ」において、「金儲けしにくいもの」がアヴァンギャルドで「金儲けしやすいもの」がキッチュであると仮定する。

 

 

アヴァンギャルドの定義だが、

 

アレクサンドリアニズムの克服を求めて、西欧のブルジョワ社会の一部は今まで耳にしたことのないものを作り出していた。それがアヴァンギャルドの文化である。p.3

 

という部分から、

古くから芸術と認められてきたものを無批判に踏襲すること(=アレクサンドリアニズム)を克服しようとする創作活動がアヴァンギャルドである、と言える。

 

 

つまり

アヴァンギャルドとは端的に

今までにない新しいもの

と考えることができる。

 

 

「アヴァンギャルドとキッチュ」の冒頭、

 

同一の文明からT・S・エリオットの詩とティン・パン小路の歌、ブラックの絵画と『サタデー・イヴニング・ポスト』誌の表紙絵という二つの異なるものが同時に生まれる。p.2

 

という箇所において、「ブラックの絵画と『サタデー・イヴニング・ポスト』誌の表紙絵」では、「ブラックの絵画」がアヴァンギャルドである。

 

新しすぎて大衆に「なんだこれ?」と言わしめるものである。そこに、当時見慣れた芸術の片鱗を見つけるのは難しかったであろう。

 

 

ブラックの絵画

Violin and candlestick (1910)

 

『サタデー・イヴニング・ポスト』誌の表紙絵

by Harrison Fisher. Saturday Evening Post cover (1908)


大衆は、展開しつつある文化に対しては多かれ少なかれ、常に無関心を通すものである。p.8

 

 

今までにない新しいものであるアヴァンギャルドは、実際のところ、大衆にスルーされてしまうという。

 

現代のアテンションエコノミー社会にとっては致命的に「金儲けしにくいもの」である。

 

 

そして、大衆に無関心を通される「全く新しいもの」が成長していくためにはパトロンの理解と援助が必要不可欠なのだが、これが書かれた時代 (1939年) にはすでにアヴァンギャルドのマネタイズは危機に直面していた。

 

 

いかなる文化も社会的基盤なしに、安定した収入源なしに発展することはできない。そして、アヴァンギャルドの場合、これは社会の支配階級の中のエリートによってあてがわれていたのであり、アヴァンギャルドはその社会から切り捨てられているふりをしていただけで、実は金のへその緒によって常に繋がっていたのである。(中略)そして今やそのエリート層は、急減しつつある。p.8

アヴァンギャルド自らが依存している観衆——富裕な人々と教養ある人々——を、あてにすることができなくなっているということである。p.9

 

 

では、冒頭の「『サタデー・イヴニング・ポスト』誌の表紙絵」の場合はどうであろうか?これはキッチュの代表としての例である。

 

キッチュの定義は以下である。

 

アヴァンギャルドのあるところには、たいていリアガード(後衛)もある。全くその通りで——アヴァンギャルドの登場と軌を一にして、第二の新たな文化現象が工業化された西洋に出現した。それにドイツ人はキッチュ、、、、という素晴らしい名を付けた。p.9

本物の文化の価値に対して無感覚で、にも拘らず、ある種の文化のみが提供できる、気晴らしに飢えている人々のために用意されたキッチュという代用文化である。p.10

 

 

キッチュとは、アヴァンギャルドの後から出てきたもので、大衆がある程度

見慣れていて理解しやすいもの

ということができる。大衆とはあらゆる人々を含むのでキッチュは特に専門的な知識がなくとも「ああ、これはアートだな」と理解されやすいものを指す。アテンションエコノミー社会にとっては「金儲けしやすいもの」のように感じられる。

 

 

しかしキッチュは本当に、アヴァンギャルドとちがって、容易にマネタイズがしやすいものなのだろうか。発表するやいなや大衆にめざとく発見され、各個人にわずかな金銭を投じてもらうだけで数の有利により莫大な利益を生み出し、大衆文化として一気に花開く、そんなことが可能なのか。

 

 

それは夥しい投資で資本を得て、それ相応の収益を出さなければならないし、市場を守るだけでなく、拡大することを余儀なくされている。キッチュは本質的に自らのセールスマンであるが、にも拘らず大きな販売組織がそのために作られていて、それが社会のあらゆる構成員にのしかかる圧力となっている。p.11

 

 

キッチュが大衆を熱狂させるためにはここで「販売組織」と書かれるような仕組みが必要なのである。こちらの構造こそが、現代の多くの人がふわっと嫌悪している「金儲け」なのではないだろうか。流行るための仕組みがあらかじめ存在している、と言ったらどう思うか。

 

 

でははじめの「アヴァンギャルドをパトロンが支える仕組み」が今、待望されているのかというと、そんなこともないのである。「一部の富裕層や知識人だけが評価する、良さがわかりづらいアート」と言ったら多くの人はあまり好意的に受け取らないだろう。

 

 

なんのことはない、「金儲けしやすいもの」なんて存在しなかった。すべて「金儲けしにくいもの」であり、アヴァンギャルドもキッチュもどちらに転んでも、マネタイズの実態を皆がふわっと嫌悪している。

 

 

金儲けに対する嫌悪という心理には、新しい文化創生という大義のための手段であったマネタイズがいつのまにか目的化してしまっている、という批判も含まれているだろう。しかし、その「手段と目的の逆転」はアーティストやギャラリストといった当事者でなければわからないことである。いや、当事者自身でさえもハッキリわかっているのか不明である。マネタイズの正当性はひょっとしたら、当事者の死後、歴史が判断をくだすたぐいのものであるかもしれない。それほどまでに、より新しい挑戦を試みた作品を評価し続ける、または大衆文化として大きな流れをつくる、ということは複雑で、時間と金のかかることなのである。以下の引用部分を読んでも感じるものがあると思う。

 

 

キッチュの膨大な利益は、アヴァンギャルドそのものにとって誘惑の源であり、アヴァンギャルドの人々がこの誘惑にこれまで必ずしも抵抗してきたとは限らない。野心的な作家や芸術家たちは、必ずしも完全にキッチュに屈服しないまでも、キッチュの圧力の下で自分たちの作品を修正しようとする。p12

 

 

このように紐解いていくと「アートを金儲けの道具にしてはいけないと思うのはなぜなのか?」という問いの答えはいまだわからず、釈然としない。金は必要であるし、資金を調達することも容易ではない。マネタイズを達成したらかなり喜ばしいと見るのが順当だと思われるが、周りからは歓迎されない、という状態のようだ。金と結びついてしまったが最後、アートの純粋さが汚される、というようなことが考えられていそうである。

 

 

さて粘り強く当初の問いを考える。

 

 

その心の奥底の嫌悪感がなぜ存在するのか?

 

アートを金儲けの道具にしてはいけないと思う、その正体はなんなのか?

 

わたしはある作品に出会ったことで答えを見つけることができた。

 

 

 

第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」(2024年3月15日ー6月9日) の出展作品、

 

 

丹羽良徳

《自分の所有物を街で購入する》

 

 

 

である。

 



 

 

丹羽の映像作品はわたしたちが当たり前のように受け入れている社会の仕組みや慣例をあらためて疑う視座を授けてくれる。

 

この作品は

     

駅のキオスクで雑誌を買い、手で持ち、べつの本屋に行き平積みされてる場所をうろついて、手持ちの雑誌をレジに持って行くと買えるので再度買う。またべつのキオスクに行き、雑誌をじっくり見ている動作をしたあと、キオスクの販売員に手持ちの雑誌を差し出すとまた買えるのでまた買う。

 

雑誌以外でも、家にあったオレンジをマイバッグに入れスーパーへ行き、カゴに移し、売り場のオレンジと合わせてレジに持って行くと家にあったオレンジも買えてしまうので買う。

     

という内容の複数の映像作品である。

 

 

 

鑑賞時、加速主義でしられるマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』を読了したばかりだったので、わたしはこの丹羽の作品が「資本主義からスルっと逃れている」と驚いた。

 

 


 

 

ここで『資本主義リアリズム』のわたしなりの解釈を述べておきたい。この著作は資本主義の見えにくい性質を描写したと言われている。

 

資本主義が行き詰まっている。資本主義は過去よりもより多くの利益を追求していくという性質をもつ。(ドラゴンボールのような少年バトル漫画で起きた敵の強さのインフレーションのように)この利益の追求には限界がある。その行き詰まりから世界的にも鬱病患者が増えている。しかし、資本主義を問題視した新たな動き、例えばエシカルやサステナブルなどが持ち上がっても、結局エシカルやサステナブルに生きるためにまた新たなツールが必要になり、新たな資本主義的商業活動が生まれてしまう。

 

資本主義はその対抗策ごと、まるで養分のように資本主義に飲みこんでいくのだ。もう限界がきているはずなのに「この道しかない」(There is No Alternative )と思わざるをえない。

 

このような現状を明らかにしたのがマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』である。

 

 

 

では、丹羽良徳の《自分の所有物を街で購入する》では何が起こっているのか。

 

 

一度購入したものを、また同じ値段で購入する。2倍の値段を支払っている。繰り返せば、支払い金額は3倍、4倍になっていく。この行為は資本主義の理から外れている。コストパフォーマンスが最悪であり、タイムパフォーマンスも最悪である。行動すればするほど、購買者からみた利益が減っていく。店側はどうだろうか。棚卸しの時にはどうなるのだろうか。売った商品数よりも売上が計上されてしまう。不明な利益の誕生である。しかも予測不可能な利益である。なんだろうこれは。

 

 

丹羽良徳の《自分の所有物を街で購入する》を観てわたしが感嘆したのは、資本主義的に価値のないものに資本を投じるという行為が「資本主義からスルっと逃れる方法」であると感じたからにほかならない。

 

雑誌やオレンジ程度の支出であれば、わたしたちは休日にはこれを実践して、資本主義の理からスルッと抜け出す必要があるのかもしれない。資本主義由来の鬱に対峙する息抜きのような抵抗である。

 

 

 

そのようなことを考えた時に、アートが直接金儲けに結びついてほしくないという欲望はここからきているのか、と思い至った。

 

 

つまり、こういうことだ。人がアート作品を作ったとしても、アートには明確な価格の基準がないために、売れるまでは0円である。また売れたとしてもそれまでにかかった経費や労力を考えると採算が合わない事態も起こりうる。何せ「金儲けしにくいもの」でもある。それでも熱量と人生をかける。その行為自体が資本主義の理からスルッと抜け出している。作家自身が「売りたくない」という作品さえ存在する。

 

 

さらに「実際には0円かもしれないもの」に対して「金を支払う」という行為もまた資本主義の理から外れている。

 

 

作る側もそれを買う側も、資本主義的に価値のないものに資本を投じるという行為により、資本主義の理から一時的に外れることができるのだ。

 

 

アートを金儲けの道具にしてはいけないと思うのはなぜなのか?

 

その答えは、

アートは資本主義の理から外れているから

というものである。

 

 

せっかく資本主義の外にあるものを無理矢理資本主義に取り込まないでくれ、という思いがあるのだ。

 

 

アバンギャルドが全く新しいものだから価値があるのだとして、全く新しいと何が良いのか。現代においては、新しいものには資本主義の魔の手が及んでいない、という付加価値がつく。時間が経つとキッチュとして氾濫してしまうが、キッチュでさえ「販売組織」と言われるような仕組みが必要なのである。ただちに大衆文化に成り上がれるわけでもない。資本主義に容易に飲み込まれない分野、「金儲けしにくいもの」それこそが創造の分野、アートの領域なのである。

 

 

わたしたちは資本主義から一時的に離脱するためにアートを欲し続ける。だが資本主義から完全に抜け出すことは叶わない。購入した雑誌を繰り返し街で買い続けても、それをずっと続けることでは生きていくことができないように。

 

 

わたしはこのことを突き詰めて、どんなに資本主義に取り込まれたかに見えても資本主義には取り込まれないというアートの自律性を主張したいのである。

 

 

 

これはあくまでもわたしの仮説であるが、資本主義から抜けられない絶望は支配階級である資本家にも蔓延していて、救いを芸術やアートにもとめている。

 

 

世界的な格差の問題にも関係してくるが、今現在の富裕層という存在はすでに何代も経た世襲の賜物であろう。ここでは富裕層を資本家として考える。

 

資本主義社会では、生産に不可欠な資本を手にしている階層は労働しない。下層の労働力を搾取して生きている。労働力とは突き詰めれば人の時間であり人生である。乱暴な言い方をすれば、他人の命を削って生きているのが資本家である。望んでのぼりつめた一代目には自身のストーリーがあり成功体験があるかもしれない。しかし何代も経た世襲の子孫はどうか。生まれながらにして他人の命を搾取する側である。そのことについて何かしらの感情も湧き上がらないものなのだろうか。しかも搾取される側との差は開きすぎており、資本家の苦しみはなかなか理解されない。自分個人の考えで労働者階級に降りることも不可能であろう。それは一族全員の問題であるからだ。

 

 

 

世界の富裕層がなぜアートを買うのか。

 

 

現代美術家である村上隆は

 

どんな人にも拭えぬ苦しみがあり、昔は宗教で回収していたのだろうけど現代ではおそらくアートを買うことで懺悔をしているのではないか

という趣旨のことを言っていたり↓

 


山田玲司のヤングサンデー マジで村上隆の何がおもしろいのかわからない人にも絶対にわかる超おもしろい天命のムラカミ論〜現代美術家・村上隆と語るマンガ・アニメ・現代アートと日本文化の核心 (1:53:50〜)

彼らが持っている、社会と自分とのドグマ(教義)というものの、解決できない絡まっちゃった状況というのを、芸術を鑑賞もしくは購入・保持することでなんとか自分のほぐれない何かをほぐそうとしている

と言っている。↓

 

 

ReHacQ−リハック−【公式】 【村上隆vs斎藤幸平】真の資本主義に挑んで勝て!芸術家・村上隆の魂とは?【高橋弘樹】 (10:10〜)

 

 

これはアートが資本主義の理から外れていることの裏付けと考えられるのではないか。

 

大衆は、大金持ちが買ってしまうことでアートが資本主義に取り込まれることを危惧し嫌悪感をもつが、実際には、何をどう買い漁っても、アートそのものは決して資本主義に取り込まれないのである。ゆえにアートを買う者には、資本主義の理から一時的に抜け出せる、という救いが与えられる。

 

 

 

 

しかし以上のことはあくまでも仮説である。本当に「資本主義社会に対してもアートは自律性を持っている」のだろうか。そのことを真に信じられないから、アートを金儲けの道具にしてはいけない、と多くの人が根強く思ってしまうのではないか。

 

 

見てきたように、今現在のアートを取り巻く状況というものを考える時、この「資本主義から抜けられない絶望」を無視することはできない。

 

 

晴れて人類が資本主義社会から抜け出し、ポスト資本主義社会が訪れたとして、そのような未来の世界ではアートはどのように存在することが可能なのか。夢想した未来におけるアートの役割を考えることで、立ち戻って現在の「資本主義社会に対するアートの自律性」を裏付けることができはしないか。

 

 

 

先ほど話題にしたマーク・フィッシャーは加速主義でしられている。

 

加速主義という言葉は現在もその意味する内容が微妙に変化し続けているようであるが、わたしが用いるときの意味としては次のようなものである。資本主義を終わらせて次の世界を到来させるために、資本主義をどんどん加速させようという考えである。臨界点を超えてしまえば自動的に次の形態に変わる。わたしたちは資本主義の次にくるものを想像できないが、状況的に超えてしまえば必ず次が来る。

 

 

残念ながらフィッシャーは自ら命を絶ってしまった。彼の頭の中ではどのような未来がありうると考えられていたのだろう。夢想し続けることは生きている者の務めである。

 

 

資本主義から抜けられない絶望への応答として「格差の是正」と、地球そのものを脅かしている「気候危機」という二点が世界の関心を集めている。チャプター2では、その二点に関係する「階級の有無」と「資源の豊かさの度合い」を軸に、ありえそうな未来を提示しているピーター・フレイズの『四つの未来』を引き合いにして、それぞれの未来におけるアートを考える。

 

 

 

 

 


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