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Chapter.2 ポスト資本主義世界のアート

チャプター1で、わたしは、資本主義社会に対するアートの自律性を主張した。どんなに金にまみれてもアートが資本主義に完全に飲み込まれることはないから安心しろ、というようなことである。

 

しかし現状、無視できない心理、すなわち「資本主義から抜けられない絶望」がつきまとうわけだが、仮に、資本主義から抜け出せたとしたらアートはどのような役割をもつのだろうか。

 

 

そこでこのチャプター2では『ジャコバン』誌(https://jacobin.com/)の立ち上げメンバーであるピーター・フレイズの著書『四つの未来』を取り上げる。『ジャコバン』誌とは、いわゆる「ジェネレーション・レフト」(格差の是正や気候危機への対応を求め、社会運動を繰り広げる若い世代)を牽引してきたメディアである。そこで描かれた想像の未来に即して、ポスト資本主義世界のアートの具体的な夢想を繰り広げたい。

 

 

 


 

 

※以下、

ライムグリーン色の四角で囲まれた引用文

は、ピーター・フレイズ 著, 酒井 隆史 翻訳(2023) 『四つの未来 〈ポスト資本主義〉を展望するための四類型』 以文社より

 

 

 

 

 

『四つの未来』では以下の二つの要素↓

資本主義社会がもたらしてしまった「格差」

・資本主義社会がもたらしてしまった「気候危機」

に対応する以下の二つの軸↓

階級の有無(平等/ヒエラルキー)

・資源の豊かさの度合い(豊かさ/稀少性)

を用いて四つの未来が提示されている。↓

 

表の縦の項目「平等」「ヒエラルキー」は「階級の有無」を表し、横の項目「豊かさ」「稀少性」は「資源の豊かさの度合い」を表している。

 

四つの未来はそれぞれ

 

・コミュニズム

・レンティズム

・ソーシャリズム

・エクスターミニズム

 

と名付けられている。

 


 

 

それぞれの未来を詳しく見る前に前提を共有しておきたい。

 

ポスト資本主義世界では、機械による自動化が加速し、テクノロジーが現代よりもはるかに進んでいる。よって、『スター・トレック』の世界のように、なんでもたちどころに複製可能な「レプリケーター」が存在しており、ベーシック・インカムなどの制度も取り入れられている世界である。

 

 

また、この『四つの未来』で展開される思考実験的な未来は、どれか一つの世界が限定的に現れるとは限らず、複数が同時に進行する場合もありうる。

 

しかし、わたしが疑問に思うのは、これらのどの未来にも今わたしたちが享受しているようなアート界、すなわちアートマーケットなどに代表される仕組みが存在しないように思われることである。ここに無理矢理、想像をねじ込むことで、今現在のわたしたちがアートと認識するものと資本主義の関係を浮き彫りにすることが可能ではないか、というのがこのチャプター2で期待しているところである。

 

 

 

 

 

コミュニズム

 

まずはコミュニズムである。日本語に訳すと共産主義だ。上の表で明らかなように、この『四つの未来』でのコミュニズムは、階級がなく平等な状態で、資源問題も人類が何らかの形で問題解決をし豊かにある状態の未来のことである。

 

 

階級がなく平等で資源も豊富にあるなら、パラダイスみてぇな(※参照:ぴよぴーよ速報世界である。階級がないことの大前提としてベーシック・インカム制度がしっかり機能しており、ロボットがケア・ワークさえも行ってくれる。人々は生きるためでなく、好きなことを好きなだけ、その能力と必要に応じてやっていれば良い。

 

このコミュニズムの章では『スター・トレック』の世界観に関して多くの言及がある。

 

わたしたちがもとめているのは、賃金のために仕事をする必要から解放され、じぶん自身やたがいをケアすることの意味を探求することのできる、そのような世界ではないだろうか? わたしの共感は、後者の可能性のほうにある。すなわち、そうした世界で展開しうる、あたらしい可能性と問題である。

 そうした社会がどのようなものかを考えるには、『スター・トレック』をみるのがよい。この作品の経済や社会は、二つの基本的な技術的要素に基礎をおいている。ひとつは「レプリケーター」のテクノロジー。それはいかなる対象をもボタン一押しで大気から物質化できる。もうひとつは、はっきりと説明はされないが、みたところ無料の(あるいはほとんど無料の)エネルギー資源。これがレプリケーターをはじめとするすべての動力となっている。  

 『スター・トレック』のテレビ番組と映画は、あるレベルでは、たんなる冒険物語であり、スペースオペラである。だが、よく目をこらしてみれば、登場人物たちの属する未来社会が、稀少性を越えた社会であることがわかる。実際にはその社会を、マルクス的な意味でコミュニズム、、、、、、社会と呼ぶことができる。つまり、「各人は能力に応じて、必要に応じて」の原則で運営されている世界である。pp.78-79

 

この世界ではベーシック・インカム以外の収入源も認められているようだ。「各人は能力に応じて、必要に応じて」それらの仕事をしている。しかし、ベーシック・インカムが実現した社会では次のような賃金体系の法則が生まれるだろう。

 

望ましい仕事に対する賃金は、最終的にゼロにまで低落する。というのも、人はそれを無償でもやるだろうし、ベーシック・インカムが基本的ニーズを供給してくれるためにそうすることが可能だからである。p.89

 

わたしの予想では、この世界ではアート作品はほぼ0円にちかいものになる。階級差もないために救いを求める資本家も存在しない。そしてアート作品を作りたい人は「各人の能力に応じて、必要に応じて」やりたくてやっている。ひと昔前に「やりがい搾取」ということばが流行った。その仕事をやりたいと希望する人が多いクリエイティブな分野では、しばしばタダ働き同然の搾取構造が生じてしまうというものである。資本主義社会では「タダ働き」は悪であり、糾弾することもできるが、ベーシック・インカムのみでも十分に生活できるようになった社会では、そうはならない。

 

 

資本主義社会でないのなら、作品が無料だろうと低報酬だろうと関係ない、という考え方もあるだろう。十分に暮らせて、作品が制作できる環境が保障されるなら問題ない、と。しかし、「作者」さえも消える、といったらどうだろうか。思い出して欲しい。このコミュニズム世界には『スター・トレック』の「レプリケーター」が存在する。必要だな、と思ったものは何でも分子原料からコピーできてしまう世界である。さらにそれらは基本的には無料である。あらゆる作品やデザインに対して「知的財産権」の概念が消失している世界、ということになる。作品から作者のクレジットが消える。そうなると、資本主義社会だったときと同じくらいの熱をアート制作に注ぐ作家というのは、存在するのだろうか。いるとは思う。だが正直、かなり数は減るような気がしている。

 

現在の資本主義社会でも、インターネットミームというものがあるが、このコミュニズム世界におけるアートはそのような扱いになるのではないか。作者不詳で時代性をおびていて、ぱっと流行して知らぬ間に話題から消える。改ざんや模倣も一瞬にして行われ、類似品が量産される。

 

わたしだったら、作品制作に労を取るのをやめる。片手間での落書き程度のものにする。バズったら、まぁ楽しいかな。そのような感じである。

 

 

 

いや、さすがに「作者」は消えない、と仮定しよう。人々の心を動かすような作品、または、歴史的価値が見出され後世に残したいと考えられる作品の「作者」を世間が無視することはないと仮定する。だが、その「作者」というのはどのようにしてこのコミュニズム世界で浮上するのか。

 

インターネットミームの作者の多くは不詳である。「わたしです」と名乗り出たところで、対価はない。特にこのコミュニズム世界では報酬というものの加算はみこまれない。仮に、この「作者」に何か報いたいと世間が判断した場合、貨幣とはべつの新しい報酬システムが存在している可能性がある。

 

 コリィ・ドクトロウの二〇〇三年の小説『マジック・キングダムで落ちぶれて』は、現代アメリカ合衆国の延長上にポスト稀少性の世界を想像した作品である。『スター・トレック』とおなじように、この世界では、物質的稀少性は克服されており、一種のアナキズムである「アドホクラシー」[ad hoc と cracy の合成による造語で、アルビン・トフラー(Alvin Toffler) が官僚制に対置させて拡がった] の原則で運営されている。つまり、その社会は、包括的ヒエラルキーに従属することなしに形成され分散している諸集団によって運営されているのである。しかしドクトロウは、人間社会の内部では、仲間のあいだでの、評判、尊敬、高評価のような、いくつかの非物質的財がつねに本質的に稀少であることを理解している。こうしてこの作品は、さまざまな登場人物が「ウッフィー(Whuffie)」を貯めようとする格闘をめぐって展開する。「ウッフィー」とは、他者からの好感を表現するヴァーチャルなブラウニー・ポイント[ガールスカウトなどでよいことをしたら与えられるポイント]である(Facebookの「いいね」やツィッターのリツイートの全般化した形態を考えればよい)。pp.94-95

 



上の引用部分に書かれているとおり、貨幣の代わりにいいねやリポストのような評価が「新しい資本」と成り代わっているのである。これは岡田斗司夫が評価経済社会やホワイト社会と言っている事態に符合する。

 

 





 

 

すなわち、このコミュニズム世界の新たな資本のシステムはすでに現実世界で確認することができるのである。見方をかえれば、フォロワー数において弱小である多くの人々は、ポスト資本主義社会においても、平等とはいえ、弱い立場に立たされる可能性がある。

 

Xなどで、資本主義社会を糾弾するような内容でいいねを稼ぐ投稿に矛盾を感じてしまうのはこのためである。その人は、無意識であろうと、次世代の「資本」を得るために資本主義を否定するという仕草でもって資本主義を体現している、と見ることもできる。

 

 

 

話を元に戻そう。

 

わたしが予想するにこのコミュニズム世界のアートは今よりも悲惨なことになっていそうだ。

 

世界というのは、一瞬にして変わることはない。貨幣に依らない資本、すなわち、他人からの評判、尊敬、高評価の争奪戦はすでにはじまっている。SNSの黎明期には(あるいはいまだに)金銭でフォロワーを買うことも可能だったことなどから、今の資本主義社会の強者がそのままポスト資本主義社会をも支配する構造が見てとれる。

 

そして、アート作品などを通して弱者が何かを訴えるようなことが今よりも困難になる。作品が評価されたとしてもミーム化し、作者は浮上せず、その本来の叫びは編集され、めちゃくちゃにされる(※参照:炭酸和訳 【和訳】 Radiohead - Myxomatosis. (Judge, Jury & Executioner.)

 

実情はどうであれ、建前として「いいひと」を演じ切れる者たちだけがアート界やアートマーケットを回していく。重要であっても、人々が目を背けたくなる主題の作品は、消える。チャプター1の言葉で言えば「アヴァンギャルド」は絶滅しているようなものである。

 

新たな資本——「いいね」「リポスト」「フォロワー」——にまんまと飲み込まれたアートがそこにある。これは、大衆を支配したいと思う側からすれば非常に楽な世界である。ディストピア以外の何ものでもないだろう。

 

 

 

SNSでの評判とはべつに評価されている作品がある、という今の資本主義社会の状態のほうがよほど健全だと思えるのだが、どうだろうか。

 

 

 

 

 

レンティズム

 

今までみてきたコミュニズムの致命的な欠点はどうやら「レプリケーターのタダ使い」にあったように思う。「知的財産権」が消えた世界が、アートに携わる者にとってディストピアな世界であるのは自明のことかもしれない。

 

次にみるレンティズムは、資源においてはコミュニズムと同じように豊かな状態であるが、階級的にはヒエラルキーが存在する世界である。このヒエラルキーは「知的財産権」の所在で発生している。

 

ヒエラルキーが存在している、という点ではコミュニズムよりは現実的な世界のようにも思う。くり返すが、世界というのは、一瞬にして変わることはない。今ある立場を完全に手放す者などいないのである。

 

 主流の経済的議論のほとんどにつきまとう誤りは、生産における人間労働が技術的に不必要になったならば、不可避にそれが消滅するという想定である。しかしながら、資本蓄積と賃労働のシステムは、効率的な生産のための技術的装置でもあると同時に、権力のシステムでもある。他者に対する権力をもつということは、権力の座にある多数の人びとにとって、それ自体が報酬なのだ。それゆえ、かれらは、他者がみずからに奉仕するそのようなシステムを努めて維持しようとする。たとえそうしたシステムが、純粋に生産的な視点からすれば完全に余分なものであるにしても。それゆえ、本章は、現在の経済的エリートが、完全なる自動化の環境においてもなお、いかにみずからの権力や富を保全しうるのか、それを議論する。pp.114-115

 

これを一読すると想像に難くないように、レンティズム世界において「知的財産権」は必ずしもアーティスト本人が所有するものではなくなっている。

 

現在の経済的エリートが新しい権力の拠り所として「知的財産権」を行使していく。おそらく、企業が買い取る形がスタンダードになっている。

 

 

 

このレンティズム世界では、レプリケーターそのものの使用料に加えて、レプリケーターで複製するもののライセンス料を支払わなければならない。例えば以下のような事態になる。

 

ジャン=リュック・ピカード船長はおもむろにレプリケーターに接近しては「紅茶、アールグレイ、ホット」とリクエストする。しかし反『スター・トレック』世界ならば、そこでホットのアールグレイのレプリケーターのパターンの著作権をもつ会社に支払いをせねばならないのだ(おそらくアイスのアールグレイが欲しければ、その権利を保有する別の会社に支払うということになろう)。pp.132-133

 

つまり、いくらベーシック・インカムが与えられるにしろ、ある程度の稼ぎがないとまともに暮らせない。このレンティズム世界は今の資本主義社会と比べてあまり変化のない世界のようである。資本主義社会の上位を占める層にとって持ちうる財産のうち「知的財産」の重要度が今よりも増した、というような世界だ。

 

 

さて、暮らすために稼ぐ必要があるのに、機械による自動化が進んでしまったこのレンティズム世界において、どのような職業がありえるだろうか。

 

「知的財産」の存在感が増しているこの世界では、何らかのクリエーションを生業とする「クリエイティヴ階級」にとって、たいへん有利な世界であるように感じられる。しかしながら、おそらく彼らを取り巻く状況は以下のようになっているだろう。

 

複製レプリケートできる新奇なもの、あるいは既存のものの新ヴァージョンを考案し、それを著作権で保護し、将来のライセンス収入の基盤とする「クリエイティヴ階級」に属する人びとは必要だろう。しかし、それが大きな雇用源となるわけではない。なぜなら、際限なく複製可能なパターンを創造するのに必要とされる労働力は、同一の対象物がくり返し形成されるような物理的生産過程に必要とされる労働力よりも桁外れに小さいからである。しかも、クリエイティヴな分野でカネを稼ぐのはいまでもきわめてむずかしい。この仕事をやりたがっている人間はとても多いので、かれらはたがいに賃金を下げあって、かつかつのサブシスタンスレベルにまでいたるであろう。こうして多数の人びとが、それに見合った対価を支払われることなしに、独立独歩で創造しイノベートすることになる。反『スター・トレック』世界の資本家たちは、おそらく不払いにおかれたクリエーターたちを調べ回り、有望におもえる新アイデアを探して、クリエーターから買い取り、そのアイデアを企業の知的財産にするのがよりコスパにすぐれているエコノミカルと考えるだろう。pp.134-135

 

クリエイティヴな仕事が今以上に安く買い叩かれるような未来である。

 

 

しかし、現実世界はもっと急激に変わっている。レンティズム世界において「クリエイティヴ階級」なるものは存在しない可能性すらある。

 

この『四つの未来』の原著が刊行されたのは2016年であるために、このシナリオに生成AIによるクリエーションの議論がごっそり抜け落ちていることを無視できない。


大衆に受け入れられる範囲での「新奇なもの、あるいは既存のものの新ヴァージョンを考案する」という条件であれば、生成AIで十分なのではなかろうか。AIは休みなく多くの案を提出することができる。そして悲しいかな、クリエイティヴなものはすでに出尽くしているという見方もできる。企業が欲しがるような「新奇なもの」を求めようとする時、人は生成AIに負けるのだ、コストにおいて。


このシナリオで問題となるのは、生成AIが学習する過程で取り込んだ著作物に対する使用料である。この使用料が具体的にいくらに落ち着くのか。これら著作物の使用料については現実世界で議論されていることである。レンティズム世界は決して夢物語ではない。「知的財産」の権利を優位に得ようとしてまさに今、ヒエラルキーの上位者による折衝が進行中なのである。

 

 

さらに言えば、アート作品においては、いわゆる障害者アートを起用する企業がほとんどになる、と予想する。機械化により、単純労働が必要なくなってしまった世界において、障害をもつ人々が自身の食い扶持を確保するにはクリエイティヴな分野しか残っていないのではないか。ひどい言い方になるかもしれないが、彼らは「自身の作品やそのライセンス料に関して値上げを要求しない」だろう。企業側にとってはメリットである。

 

 

 

企業ではなく、個人のアート愛好家が購入するアート作品やそのマーケットは生き残っているだろうか。機械化により稼ぐ手段が限られ、何をするにもライセンス料が発生するような世界では、生活においてアート作品をわざわざ「購入する」余裕のある者が今よりも少なくなっている気がしてならない。

 

自給自足をしようとして畑を耕すにしても、この「知的財産権」の蔓延る世界では、種は前年の作物から流用してはならず毎年購入しなければならない。トラクターも乗り物を操作する想定上のライセンスを得ているだけで所有してはいないという状態である。以下の引用部分は未来のレンティズム世界の話ではなく、現代の話であることに留意されたい。

     

二〇一三年のボウマン対モンサント社の[裁判の]判決で、合衆国最高裁は、ヴァーノン・ボウマンというインディアナの農場主の有罪を支持した。かれはアグリビジネスの巨大企業モンサント社が保持している特許権を侵害したとされたのである。ボウマンの犯罪とは、除草剤に耐性をもつよう組み換えられた「ラウンドアップ・レディー」遺伝子をふくむ大豆の種子を植えたことである。この判決により、モンサント社は農家に対し、前年の作物の種子を使用するのではなく、毎年あらたに種子を購入するよう強制することが可能となった。pp.125-126
たとえば、ディア・アンド・カンパニー[世界最大の農業機器メーカー]は政府機関に、農場主たちがトラクターに搭載されているソフトウェアを改良したり修理したりするのを非合法と訴えている。だれも本当の意味ではそのトラクターを所有しているわけではないからというのが、ディア・アンド・カンパニーの掲げる理由である。農場主たちはたんに「乗り物を操作する……想定上のライセンス」を保有しているだけというわけだ。所有形態はこのように変容をきたしている。それゆえトラクターのような物質的なものですらも、その購入者の物理的財産ではなく特定期間のあいだライセンスされたパターンであるにすぎないのである。pp.126-127

 

 

このように行き過ぎていると思われる「知的財産権」の世界では、アート作品の制作側の負担も増すだろう。

 

たとえば、平面に図像をあらわしたものを制作し販売する際には「絵画」のライセンス料を支払う、というようなことが起こりうる。いったい誰が「絵画」という形態に対しての「知的財産権」を独占できるのか、そんなことはありえない、と思うだろうか。だが、考えてみてほしい。現代では土地の所有者なる者が存在し、またその土地をどのような目的で使うか——農地なのか宅地なのか、建物の高さはどこまで許されるか——さえも定めるような仕組みがある。これらは当たり前のように受け入れられている。

     

中世においては、土地はおおよそ共有資源とみなされていた。p.122

にもかかわらずである。

 

(※参照:地面師たち第五話

ハリソン山中のセリフ 「知恵が文明を創り出し、生物界の頂点に君臨させ、こんなひどい世界を作り上げた。その最たる愚行が土地を所有したがるということです。」

https://www.netflix.com/jp/title/81574118

 

 

 

 

 

以上のことからレンティズム世界におけるアートは、ごく少数の者だけが制作する類のものになっていると予想する。アート作品におけるダイバーシティは失われる。

 

供給も需要も極端に落ち込んだアートマーケットは、規模を縮小した状態で落ち着くのだろうか。

 

アート作品の買い手となるのは少数の「ヒエラルキーの上位者」だ。このレンティズム世界の仕組みが今の資本主義社会とほぼ変わらないことから、「ヒエラルキーの上位者」が懺悔の気持ちや自分のほぐれない何かをほぐそうとして、アート作品を購入するのみ、ということになる。「ヒエラルキーの上位者」に気に入られるアートしか残らないということだ。

 

 

 

 

 

 

ソーシャリズム

 

ソーシャリズム、すなわち、社会主義の世界のことだが、この『四つの未来』においては、人々には階級がなく平等な状態ではあるが使える資源には限りがある、という世界である。

 

 

人間の精神的な充足といった意味では、ひょっとしたらこのソーシャリズム世界が最もよい、と考える人が多いかもしれない。なぜなら、この世界では、一定のレプリケーター使用権が平等に与えられ、かつ、生態系再建を目的とした再生可能な資源の回収という義務のような仕事も与えられているからである。ベーシック・インカムを受けながら、利益を追求しない仕事、すなわち、存在意義も与えられる世界である。

 

『四つの未来』のこの章を読んでも、この未来こそが著者の一押しである、とでもいうように、結果論として描くディストピアではなく、これが最善と訴えるような理論とその実現方法の模索にページが割かれていた。

 

章のはじまりは、この世界の一場面としてキム・スタンリー・ロビンスンの『パシフィック・エッジ(Pacific Edge)』が引用されている。登場人物が、リサイクルのためアスファルトを回収しようと古い街路を掘り起こしているところ、みるからに不必要な信号機に遭遇した場面である。

 

朝から昼にちかづくにつれ、だんだんあたたかくなってきた。かれらは三番目の信号制御機に走り寄ったのだが、そこでドリスが顔をしかめた。「むかしはすごく浪費的だったんだよね」。

 ハンクは応じた。「どんな文化だって限界まで無駄遣いするもんなんだよ」。

 「ちがうよ、どうしようもない価値観のせいだね」。

 「たとえばスコットランドはどうだ?」とケヴィンがたずねた。「すごく慎ましいというよな」。

 「でも連中は貧しかったんだぜ」ハンクはいった。「慎ましくなるしかなかったんだよ。オレの意見は揺るがないさ」。

 ドリスはゴミをホッパーに投げ入れた。「浪費が美徳って、環境にはおかまいなしなんだよね」。

 「なんで連中がこれを放置したかわかるよな」と、信号制御機を軽く叩きながら、ケヴィンがいう。「こんな道路を掘り起こすのってすげえ大変だもんな、車があってもさ。

 ドリスは短い黒髪を揺らしながら、「なにちょっと、それは逆でしょ、ケヴ。ハンクみたい。人を動かすのはさ、価値観であって、逆じゃないんだよね。かれらがちゃんと考えてたら、こんなのぜんぶ取り払って、再利用してたでしょ。わたしたちみたいにさ」。

 「まあそうだろうな」。 pp.149-150

 

Kim Stanley Robinson, Pacific Edge, pp.5-6

 

人を動かすのは価値観——この世界ではおそらくアート作品に価値は見出されていない。このソーシャリズム世界の記述を読んで、なぜ今の環境活動家が絵画にスープをかけるのか、感覚的に繋がった気がした。

 

 

感覚的でないところの理屈で言えば、いまだ白人中心主義、男性中心主義、エリート中心主義が蔓延る現代の美術館やアート界と、環境問題において真っ先に犠牲となるマイノリティとの対立、と理解されるだろう(※参照:TOKYO ART BEAT ゴッホにモネ、なぜ環境団体は「絵画」を標的にするのか? ウクライナ侵攻後の欧州情勢や思想的背景から探る(文・増田麻耶) https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/climate-art-protests-maya-yasuda-202211

 

 

しかしもっとより感覚的な対立構造は、こうである。アート界は、ヒエラルキーのない完全な平等を実現した社会では存在できない、ということなのだ。

 

いや、環境問題やマイノリティの問題を訴えるアート作品は存在する、と思うかもしれない。しかし、それらは現時点で人々に認知され尽くしていない問題として存在するために作品主題として成り立っているのであって、解決に向けて動き出した世界では主題になりえない。

 

 

ここで語られるソーシャリズム世界において、アートマーケットは完全に消滅している、と予想する。アート作品に価値を見出すということは、平等な状態に差異を生じさせることに他ならないからである。絵はだれでも描いた「ことがある」。だれでも話したり文を書いたりしたことがあるのと同じように。しかし「優劣」や「好き嫌い」で判断されてしまうのもアート作品である。その差異に価値が生じ値段がついてはじめて、アートマーケットが存在可能になる。

 

しかしこのソーシャリズム世界ではアートの制作活動がアスファルトを回収する仕事より優先されることがあってはならないだろう。制作活動とは自分自身と向き合うことであるとして、休日に制作自体を行う者はいるかもしれない。だが、その制作物を販売することは「他者と差をつけるために行う行為」と見なされかねない。生態系再建に優先されるアートなどない、アスファルトを回収する作業は簡単ではないのだから、その作業にこそ存在意義を見出すのが人間らしい、そういう価値観の世界である。なるほど、それは正しいかもしれない。

 

しかし、人がほんとうに平等に扱われることは可能なのか。可能だとして、わたしたちは平等に扱われることに満足できるのか。

 

 

 

チャプター1では、資本主義社会に飲み込まれない、ある意味で資本主義の反乱分子としてのアートという仮説を立てたが、ここでは、社会主義に対する反乱分子としてアートが理解される。

 

そうであるならば、近代以降のアートがそうであったように、未来においても、アートはその時代時代に蔓延るイデオロギーに対する反乱分子として定義することが可能であろう。

 

 

 

 

 

エクスターミニズム

 

聞きなれない言葉であるが訳は「絶滅主義」である。


マルクス派の歴史家E・P・トムスンによる1980年の考察は「エクスターミニズム[絶滅主義]についての覚書、文明の最終段階(Notes on Exterminism: The Last Stage of Civilisation, Exterminism and the Cold War)」というタイトルである。


その考察の中で新たに登場した「エクスターミニズム」という概念について、『四つの未来』では以下のような説明がなされている。

 

かれはマルクスの『哲学の貧困』より有名な一節を引用している。「手回し挽き臼ひきうすは諸君に、封建領主を支配者とする社会を与え、蒸気挽き臼は諸君に、産業資本家を支配者とする社会を与えるであろう※1」。つまり、ひとつの社会の中心的な経済的諸関係が変化すれば、その社会のすべての社会的諸関係もそれにともなって変化する傾向がある、ということだ。軍事産業主義(military industrialism)の論理にたちむかいながら、トムスンはこう問いかけている。「人間の絶滅の手段を次々とつくりだしながらいま作動しているこの悪魔の挽き臼によって、わたしたちに与えられているものはなにか?」。「エクスターミニズム」というカテゴリーが必要である。これが、かれの回答であった。この用語は「その帰結が大衆の絶滅であるような方向へと社会を促していく諸特徴」を包括しており、「その諸特徴は、さまざまな度合いで、経済、政治体制、イデオロギーの内部に表現されている※2」。p.198

※1 Karl Marx, The Poverty of Philosophy, Marxists.org, 1847. [平田清明訳「哲学の貧困」『マルクス=エンゲルス全集 第四巻』大月書店、一九六〇年、一三四頁]。

※2 E.P.Thompson, ”Notes on Exterminism: The Last Stage of Civilisation, Exterminism and the Cold War”, New Left Review 1:121, 1980, p.5[河合秀和訳「絶滅主義、文明の最後の段階についての覚書」『ゼロ・オプション——核なきヨーロッパをめざして』岩波書店、一九八三年、一三八頁]

 

 

『四つの未来』の表に当てはめれば、このエクスターミニズム世界では人々の間にヒエラルキーが存在し、使える資源にも限りがある。なんのことはない、今生きているこの世界そのままではないのか。行き着く先は、ヒエラルキーの上位者だけを残して、多くの人が生き絶える未来なのか。

 

まず、ヒエラルキーの上位者が大衆の絶滅を望むなどということが本当にありうるのか。これには、この『四つの未来』が大前提としている「テクノロジーの発展による自動化」が大きく関わっている。

 

ヒエラルキーと資源の稀少な世界という条件のもとで生産が自動化する大きな危険は、それが大量の人間を支配的エリートの立場からは余分なものにしてしまうことである。これは、資本と労働の敵対性が利害の衝突と相互依存の関係というかたちをとる資本主義とは対照をなしている。つまり[かつての資本主義においては]労働者たちは、敵対しながらも、じぶんたちが生産諸手段を支配していないという意味で資本家たちに依存していた。そして資本家も、その工場や店舗の運営に労働者たちを必要としていたのである。p.195
古い労働者やソーシャリストたちのスタンダードナンバーである「ソリダリティ・フォーエバー」[一九一五年にIWW(世界産業労働組合)のためにラルフ・チャップリンによってつくられたが、それを越えて広範に唄われた労働組合賛歌]において、労働者の勝利は不可避なものであった。というのも「かれらは労せずして権利なき巨万の富を手にした/だがわれらの頭脳と筋力なしには歯車のひとつもまわらない」からである。ロボットの台頭とともに、後半の一節は妥当性を失った。

 経済的に過剰である窮乏化した群衆の存在は支配階級にとっては大いなる脅威である。かれらはもちろん、来るべき財産の没収に怯えることだろう。 pp.195-196

一九八三年の論文で、ノーベル賞経済学者のワシリー・レオンチェフは、本書で考察してきた大量失業の問題を予測していた。「いささかショッキングであるが本質的に適切なアナロジー」である、と、控えめにではあるがつぎのように述べている。

 

 コンピューター化され、自動化され、ロボット化された新装置が導入されるにつれ、労働の役割はその比重を落としていくことが予想される。この過程は、農業においてトラクターなどの機械装置が馬やそれ以外の輓獣の必要を低下させ、それから完全に不要のものにした過程と似ている※1

 

 かれのいうように、こうして大多数の人間はつぎのような結論にいたる。「人間の観点からすれば、使えない馬を維持することには・・・・・・ほとんど意味がない」。その結果、米国の馬の頭数は一九〇〇年の二一五〇万から一九六〇年の三〇〇万まで激減した※2。レオンチェフは、二〇世紀中盤のテクノクラートらしい屈託のない自負をもってこう表明している。すなわち、人間は馬ではないから、われわれが社会の成員すべてを支える方策をみいだすのは確実である、と。(中略)しかしながら、今日の支配階級の傲慢で残酷な態度をみれば、このことをもはや自明視することはできない。pp.200-201

※1 Wassly Leontief, ”Technological Advance, Economic Growth, and the Distribution of Income,” Population and Development Review 9:3, 1983, p.405 

※2 M.Eugene Ensminger, Horses and Horsemanship, 5th ed.,Shawnee Mission, KS: Interstate Publishers, 1977.

 

トラクターの登場により、馬の数が減った。これは事実である。


しかし本書でも、さすがにいきなり労働者の人口を大幅に減らすという最終解決にすすむとは考えられておらず、まず、富裕層は貧困者から距離を取る、ということを述べている。「エンクレーヴ[飛び地]社会」である。

 

ゲーテッド・コミュニティ、プライベート・アイランド、ゲットー、監獄、テロリズムへの偏執、生物学的隔離——これらはいわば反転したグローバル強制収容所だ。貧困の大海に点々と散らばる富の小島に富裕層が暮らす、これがこの世界のパノラマである。p.203

 

大谷翔平選手の豪邸を取材したかどで日本のTV局がロサンゼルス・ドジャースから出禁をくらったニュースは記憶に新しい参照:https://gendai.media/articles/-/131637

 

これは安全面で仕方のないことではあるが、窮乏化した群衆の存在は富裕層にとって大いなる脅威であることを裏付けるものでもある。

 

あるいはカルティエ[リシュモングループ]の会長であるヨハン・ルパート(Johann Rupert)は、二〇一五年の『ファイナンシャル・タイムス』紙の会合で、貧困層の反乱を考えると「夜も眠れない」と発言している。 こうした意見は不快なものだが、かれらなりの論理がないことはない。超絶的な不平等と大量失業の世界でも、しばらくのあいだは大衆を買収することはできるだろうし、実力で抑圧することもできるだろう。しかし窮乏した大衆が存在するかぎり、いつかはかれらを抑え込むことも不可能になるかもしれない。大量の労働が不要なものとなったとき、最終解決が浮上してくる。pp.207-208
Adam Withnall,”Cartier Boss with $7.5bn Fortune Says Prospect of the Poor Rising Up ‘Keeps Him Awake at Night,’ ” Independent, June 9, 2015.

 

 

なんとも恐ろしい話だが、ここに書かれた最終解決はひょっとしたらすでに採択されてしまったのかもしれない。繰り返しになるが、この本の原著は2016年に刊行されていることを念頭に以下の引用を読んでみてほしい。

 

 

しかし抑圧からあからさまな絶滅への最終的移行が、本当にありうるのだろうか?そうした移行は、イスラエルによるパレスチナの占領のように、まず階級的対立が民族的対立と重なるような場所ではじまっている。かつてイスラエルは、安価なパレスチナ人の労働に強く依存していた。しかし政治経済学者のアダム・ハニーがいうように、一九九〇年代終わりから、アジアや東欧からの移民労働者がこうした労働者たちにとってかわるようになる。こうしてパレスチナ人を労働力としては不要なものにしたイスラエルは、シオニストの入植者植民プロジェクトの狂信的要素を解き放つことができたのである。二〇一四年のガザ地区攻撃のさい、イスラエル政府は「自衛」を主張したが、それはほとんど笑うしかない空語であった。なによりかれらは、病院、学校、発電所を爆撃し、男性も女性も子どもも無差別に殺戮し、住宅の多数をなぎ倒したのであるから。pp.208-209
※Adam Hanieh, ”Palestine in the Middle East: Opposing Neoliberalism and US Power,” Monthly Review, July 19, 2008. 

 

昨年より継続中のパレスチナーイスラエル間で勃発した殺戮行為を考慮すれば、このエクスターミニズム世界における最終解決が現実味を帯びてくる。

 

 

そして、一見、平和な日本においても、歯止めのきかない少子高齢化社会は何かしら「その帰結が大衆の絶滅であるような方向へと社会を促していく諸特徴」を備えていると言えないだろうか。

 

 

だがすでにわたしたちは、政治的・経済的エリートが、みずからを偉大なる人道主義者だと確信したまま、深刻化する貧困や死を正当化するそのさまを、目の当たりにしているのだ。p.220

 

 

さてわたしは、ポスト資本主義世界におけるアートの話をしている。エクスターミニズム世界においてアートはどのような働きをするのだろうか。


前述のソーシャリズムの終わりに、アートはその時代時代に蔓延るイデオロギーに対する反乱分子になりうるという可能性を示した。


チャプター1で引き合いに出したYoutubeプログラムでの村上隆の発言にわたしの個人的な見方をむりやり絡めれば、ヒエラルキーの上位者である富裕層は一体何を懺悔しているのだろうか、とここで改めて問いたくなる。そのような富裕層たちにパブロ・ピカソの《ゲルニカ》が、または高畑勲監督の「火垂るの墓」が届いたところで何かが変わるだろうか。

 


 

絶滅の運命をたどらされる弱者は、己れの魂を作品に込め、永遠の生を得ようとするかもしれない。

 

 

 

 

 

わたしは怒っている

 

以上、『四つの未来』を多く引用しながら、書かれていないアートの未来を夢想してきたわけだが、見えてきたこととして

 

アートとは、その時代や地域・社会に広く蔓延するイデオロギーに対する反乱分子たるものである。

と結論づけたい。

 

 

コミュニズム世界では、うわべだけの「いいひと」たちに当てつけるが如く、複製するのもはばかられるような、人間の恐ろしい側面を表現するアートが現れるであろうし

 

レンティズム世界で「絵画」あるいは「彫刻」など各形態においてまで行き過ぎたライセンス料が発生した際には、「絵画」や「彫刻」そのものの定義をかいくぐるような作品が現れるであろうし

 

ソーシャリズム世界では、己れの個性を声高に叫ぶ作品が現れるであろうし

 

エクスターミニズム世界では、絶滅した後も永遠に残ることを目指した作品が現れるであろう。

 

 


今は資本主義が極まってしまったために、アートはその反乱分子として「金儲けしにくい」という性質がクローズアップされ、「金儲けの道具にしてはならない」とまで思われているのである。


チャプター1の仮説を引き継げば、「アートは資本主義社会に対する反乱分子であり、金儲けしにくいがゆえに、資本主義に対するアートの自律性は担保される」ということになるだろうか。

 

 

 

しかし未来では、この『四つの未来』で描かれた世界とは全く異なる世界が到来することもあろう。

 

ただ、いかなる未来がやってこようとも、アートに価値を見出すことをやめてはならない。反乱分子であるアートに価値を見出すことは、行き過ぎた世界の調整機能を人間自らが具えるということなのである。

 

 

では、アートに価値を見出す、とは具体的にはどういうことか。

 

 

 

貨幣経済である現在では「対価として金銭を支払う」ことである。これは、資本主義社会がアートを飲み込んだ結果ではない。コミュニズム世界が到来したならば、対価はウッフィーでもなんでもよいのである。アートは対価を支払われてこそ機能する。再びソーシャリズム世界での話をしよう。アート作品に価値を見出すということは、平等な状態に差異を生じさせることであった。絵はだれでも描いた「ことがある」。「優劣」や「好き嫌い」で判断されてしまうのもアート作品である。その差異に価値が生じ、対価が支払われる。ここで無報酬となってしもうと、ソーシャリズム世界の反乱分子とはなりえない。行き過ぎた平等の世界で、どうしても個性を叫びたくなったとしよう。その叫びに対価(金銭でもウッフィーでも)が支払われてはじめて影響力という力が与えられる。

 

このように書き進めると、まるで貨幣経済社会では値段のつかないアートは意味がない、と言っているように聞こえてしまうが、そうではない。あるアート作品に値段がつくかつかないかは、時期や運やタイミングなど色々な要素が関係してくる。今値段がつかなくとも将来はつくかもしれないし、逆もある。

 

わたしの主張はチャプター1から一貫している。「アートがマネタイズに成功することに臆するな」と言いたいのである。なぜなら単に今が貨幣経済社会であるからである。金銭が支払われてこそ届くものがある。フォロワーのいない反乱分子がSNSにただ愚痴をつづるだけではなんの力もないのと同じである。

 

 

 

さて、チャプター2の最後になぜこのように取ってつけたような話をしたかというと、最終のチャプター3でわたしの怒りの矛先を明らかにしたいからである。

 

わたしは怒っている。怒っていなければ、このようなブログを立ち上げようとは思わなかったのである。

 

 

 

 

 


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