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Chapter.3 現代に潜むシャブリリ

今までつらつらと書いてきたこの一連の文のタイトルは「絶望を焚べよ」である。これは、フロム・ソフトウェアから発売された『DARK SOULS II』というゲームのキャッチコピーから拝借している。

 

フロム・ソフトウェアから発売されるアクションRPGは俗に「死にゲー」と呼ばれる。「死にゲー」とは、ゲーム進行にかかせない戦いにおいて、たとえ雑魚キャラと対峙した時でもプレイヤーが死にまくるという、難易度が高すぎるゲームのことである。雑魚キャラとの戦闘でも苦戦を強いられるのであるからボス戦となればさらに絶望的な状況がプレイヤーを襲う。何回トライしても勝ち目がないように思える戦いに、プレイヤーは時にコントローラを放り出しながらも、わずかな攻略の糸口と自身の成長を見出して挑み続ける。負けてしまった後のゲームの再始動は休息の場でもあるかがり火から始まることから、かがり火に絶望を焚べる、という表現が秀逸である。ちなみにわたしは後述の『ELDEN RING』含め、すべて未プレイだ。だがフロム・ソフトウェアのゲームを攻略していく動画を観て作品のファンになった。

 

 

 

フロム・ソフトウェアの「死にゲー」シリーズとして『ELDEN RING』がある。『ELDEN RING』では黄金律という「律」が砕かれた混乱の世界にて、最終的に新たな王となって「律」を打ち立てることが目的とされている。黄金律は不完全であった。わたしはこの「砕かれた黄金律」に「資本主義世界の終焉」を、「新しい律」に「ポスト資本主義世界」を勝手に重ねている。

 

『ELDEN RING』はマルチエンディング方式をとっているため、クリア時には全く異なる複数の「新しい律の世界」が用意されている。全てはプレイヤーの意志によるのである。その中の一つに「狂い火の王」エンディングがある。「狂い火」はあらゆるものが生まれることを否定する。これ以上生まれることのない世界を良しとするエンディングである。

 

『ELDEN RING』は海外でも発売されており、「狂い火」については「混沌の火」 flame of chaos と言ってるセリフも見受けられるが、海外Wikiで見られる Frenzied Flame や Flame of Frenzy という表記が正式のようである。Frenzy からは、精神錯乱という印象を受ける。ブログ全体のタイトル FRENZIE はこの語からとっている。

 

わたしはこの「狂い火」エンディングに象徴されるような世界を支持しているわけではない。全く逆である。「狂い火」の世界になってしまわぬよう、常に心に留める意味でブログのタイトルを FRENZIE にしたのである。

 

 

何も生まれないことを良しとする「狂い火」の世界のように、現代の日本において、アートと呼ばれる表現が何も生まれてこなくても構わないのか、と問いたくなるような方向づけが少なからずある。具体的には、アートやその他の表現に対して金銭で報いないことだ。チャプター2で言えば、アートに価値を見出さないような風潮である。そのことに対して警鐘を鳴らしたい思いがある。

 

 

チャプター1で引用したグリーンバーグの一節に再登場してもらおう。

 

いかなる文化も社会的基盤なしに、安定した収入源なしに発展することはできない。p.8

クレメント・グリーンバーグ、藤枝晃雄 編訳 (2005) 『グリーンバーグ批評選集』 勁草書房より

 

 

アートに価値を見出すこと ≒ 対価を支払うことは文化の発展以上の意味がある。チャプター2で

 

行き過ぎた世界の調整機能を人間自らが具える

 

と書いた部分だ。今は行き過ぎた資本主義社会なのかもしれない。だが、それにかこつけて、アート作品が売れること自体を否定するような考えは断じて受け入れ難い。チャプター1のわたしの仮説のとおり、作者や買い手に、資本主義の理から一時的に抜け出すような救いをももたらすのがアートなのである。

 

 

先日もマウリツィオ・カテランの《コメディアン》という作品が624万ドル(約9.7億円)で落札されたというニュースが話題になった。バナナをダクトテープで壁に留めた、という作品である(※参照:CNN.co.jp 壁にテープで貼ったバナナが再び売却、今度は9.7億円

 

この作品は2019年のアート・バーゼル・マイアミ・ビーチで初めて販売された。その時点での価格は12万ドル(当時のレートで約1,600万)であった。今回のオークションではその50倍以上の値がついたことから「投資」と捉える向きもある。

 

一方で、競売人は「象徴的」かつ「破壊的」と評し、落札者は「芸術、ミーム、暗号通貨コミュニティーの世界を橋渡しする文化的現象を表している。この作品は将来、より多くの思考と議論を呼び起こし、歴史の一部になると信じている」と発言している。

 

まさに、アートが表現するものは「概念」である、ということでもあろうが、わたしにとってはこの作品の意味するところはぶっちゃけどれでもよい。資本主義社会のヒエラルキー上位者が、どこにでもありそうなバナナとダクトテープに巨額を支払った、という事実ほど「反」資本主義的なことはないのではないだろうか、と考えているまでである。

 

アート作品の値段ほど先が読めないものもない。「アートは資本」とは素直に考えられない。むしろ、掃いて捨てるほど財産のある人の一部のお金が、戦争などの殺戮行為を助長する方向に用いられずバナナとダクトテープに費やされたことを喜ばしく思っている。

 

 

 

大きな金額を話題にしてしまったが、なにもすべての人に対して巨額をアート作品につぎこめ、と言いたいのではない。1円も支払えないという経済状況も存在するだろう。こういうものは、払えるところに払ってもらおうではないか。業界全体が潤えば、おのおのが抱える苦境を癒してくれる作品が登場する余裕も生まれる。自分が買うわけではないのに他人の買い物を非難することに何の意味もない。

 

アート作品は「概念」なのだ。つまり、それぞれが抱える問題を作品に昇華することも可能なのである。作品制作ができなければ、自身に共鳴する作品を応援すればいい。買えなければ、買われることを喜んだらよい。たとえ嫌いだと思う作品が売れたとしても、巡り巡って、誰かの作品に寄与するはずだ。

 

 

 

わたしが思うところのアートとは、人そのものなのである。ゆえに「冷笑してないでもっとガチで行こうよ」という主張を他のブログに書いたが(参照:onlineartjournal.com 雑記 2024/07/08 乳がんと都知事選。冷笑しぐさはとっくに死んだ)、今現在のわたしの主張は少し変わってしまった。絶滅するな。なんでもいいからとにかく存在していよう。どんな作品でも「売れる」ことに臆するな、と思っている。

 

 

 

しかし、アートという文化そのものを否定する人がそんなに存在するのだろうか。明確に否定している人は少ないのであろうが、わたしとしては「アートが売れることに嫌悪感をもつ」すべての人は、残念ながらこれにあてはまると思っている。

 

チャプター2で結論づけたようにアートが反乱分子であるならば、それに敵対するのは権力側の人間だろうか。

 

今この時、つまり資本主義の行き詰まりが極まってしまった時代は、次の社会を模索するべく、様々な「律」を唱える者が跋扈している時代だと言えよう。


ゆえにアートのマネタイズに反対する者は現段階の権力者とは限らない。次世代の権力者になろうと目論む者が反乱分子の芽を摘もうとしている、と考えることもできる。大半の人は、そのプロパガンダに惑わされている、というのがわたしの見解である。

 

 

ここで『ELDEN RING』のシャブリリというキャラクターに注目してみたい。狂い火のストーリー進行にかかせない人物だ。公式の説明は以下のようなものである。

 

シャブリリというその男は

讒言の罰として、人々に瞳を消され

やがてそこに、狂い火の病を宿したという

 

この『ELDEN RING』は設定が断片的にしか開示されていないために、さまざまな考察を量産することになった。この「讒言の罰」についても、具体的にどのようなことがあったのかは明らかにされていない。

 

 

狂い火とシャブリリについては、「トマトちゃん / ゲーム総合」による動画が秀逸なのでここにシェアする。1時間を超える動画だが非常に楽しく拝見した。

 

 【エルデンリング DLC 考察】全部わかる!!「狂い火」の謎を完全考察!!【三本指・ミドラー・ナナヤ・シャブリリ・ヴァイク・奈落・狂い火の王・外なる神】

 

 

上記の動画の内容からシャブリリ、および、狂い火の重要な特徴を抜き出すと以下のようになる。

 

・シャブリリは、死体を乗っ取ることができる

・シャブリリは、狂い火を広めたいと思っている

・シャブリリは、狂い火の病の起源である

・シャブリリは、歴史上、最も憎悪された男である

・狂い火の病は、感染する


 

 

 

「トマトちゃん / ゲーム総合」の考察によれば、狂い火のストーリーを完遂した先に待つのは、おそらくシャブリリと思われる者の魂による独裁統治であろう。目的を遂げるために、シャブリリはプレーヤーにこう甘言を弄する。

 

…正しい王の道を歩むのです

混沌の王たるその道を

黄金樹を燃やし、打ち倒し

我らを別け、隔てる全てを侵し、焼き溶かしましょう

ああ、世に混沌のあらんことを!


 

 

「我らを別け、隔てる全てを侵し、焼き溶かし」ということからもわかるように、シャブリリや三本指および「狂い火」の信奉者たちは、どうやら平等な世界を訴えている。だが真に平等な世界などありうるのか。そこには必ず頂点に立つ者がいるはずだ。



 

 

狂い火の王になる者は、必ず首が取れ、そこから狂い火が発生し、両手をあげる動作をするという共通点が見られる。「トマトちゃん / ゲーム総合」の考察によれば、これは同じ何かが憑依しているためである。憑依したのは、死体を乗っ取ることができるシャブリリその人ではないのか。全てが焼き溶かされた後に君臨する独裁者である。



 

 

これと同じようなことが現実にも起こりうる。「平等」という甘言には注意しなければならない。真に平等な世界というのは実際のところありえないのである。わたしたちが死守せねばならないのは、弱い立場の者が訴えることのできる「手段」である。アートとはその「手段」の一つとなろう。アートの火を絶やしてはならない。差異が真になくなることはないのだから。

 

 

 

士郎正宗による漫画 『攻殻機動隊』 において、人形使いという知的生命体は、草薙素子というサイボーグと融合することを希望した。その理由は以下である。

 

なぜなら私のシステムには老化や進化の為のゆらぎや自由度(あそび)が無く破局に対し抵抗力を持たないからだ…… p.339

士郎正宗 (1991)『攻殻機動隊』 講談社より

 

ゆらぎや自由度(あそび)とは人間の欠点とされる部分でもある。しかしそれらがあってこそ、進化もある。

 

差異がまったくない画一的な生命体は滅びやすい。

 

コピーをとって増えた所で「1種のウイルスで例外なく全滅する」可能性を持つ……

コピーでは個性や多様性が生じないのだ p.339

士郎正宗 (1991)『攻殻機動隊』 講談社より

士郎正宗 (1991)『攻殻機動隊』 講談社


 

 

 

個性や多様性という差異からは、より弱い、より劣るなど負の要素が生まれることもある。それゆえに苦痛、絶望、呪いもまた生まれる。だがそのことを否定しては、何も生まれない「狂い火」の世界になってしまう。



 

 

 

「絶望を焚べよ」とは「生きよ」ということである。

 

たとえ負の感情であっても、わたしは、生きることそのものを感じさせるアート作品に多く出会えることを望んでいる。

 

 

 

 

 

お気持ち表明みたいなことを長々と書き連ねてしまったが、これをこのブログのはじまりとしたい。

 

今後のブログ記事ではもう少し美術史的なことや美学的なことへの私見を綴っていきたいと思っている。

 

また、展覧会の感想ブログである onlineartjournal.com も続けていくことにした。棲み分けとして、 onlineartjournal.com ではレポート寄りの記録として更新し、こちらの frenzie.online はそれを参照したりしなかったり、という形をとる。 

 

 

 

今後ともどうぞよろしくお願いします。 

 

 

 

 

 


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